2023年 09月 26日
BORN FREE AND EQUAL THE STORY OF LOYAL JAPANESE-AMERICANS / Ansel Adams |
大統領令9066
合衆国大統領および全軍最高司令官として私に付与された権限により、私はここに陸軍長官と陸軍長官が適宜指名する軍司令官達に対して、陸軍司令官ないしその指名された軍司令官が必要あるいは望ましいと判断した場合には陸軍長官またはその指名された軍司令官が定めた場所と範囲を軍事地域と指定し、その該当地域より特定ないしすべての人間を退去させ得る権限を遂行するよう指示する。これに関して、該当地域に侵入、在留、退出する何人の権利も、陸軍長官あるいは当該軍司令官の裁量による規定により制限されるものとする・・・・・。
フランクリン・D・ルーズベルト 1942年2月19日
1942年の春、合衆国政府は11万の住民の強制撤去と抑留を始めた。その3分の2はアメリカで生まれた市民だった。このいわゆる「再配置」は日本人を祖先に持つすべての市民、居住者に適用された。これらの市民、居住者は個人として告発、命令されたのではなく、集団として抑留のために出頭するように命令を受けた。
西部防衛地区の司令官ジョン・L・デヴィッド将軍はルーズベルト大統領から軍事地域を規定し、特定ないしすべての人民をそこから排除する権限を与えられていたので、3月2日カリフォルニア、オレゴン、ワシントンを戦略地域と宣言し、日系人をその地域から退去させる命令を出した。再配置命令が出た時、被収容者を抑留する施設は何もなかった。カリフォルニアのマンザナー、アリゾナのストンの最初のセンターは、軍の入隊センターであって、急遽、戦時再配置当局の管轄下に移されたものだった。これらの収容所で日系アメリカ人の受け入れが、1942年3月末から始められたが、たいていの場合は施設は完全に出来上がっていなかった。そして往々にして完成後もその施設は不備で、大きさ、衛生、風雨をしのぐ点でも人間の最低限の安息に必要な基準をも満たしてはいなかった。カリフォルニアのソールレイク、アリゾナのヒーラリバー、ユタのトパズ、アイダホのミニドカ、コロラドのグラナダ、アーカンソーのジェローム、ワイオミングのハートマウンテン等収容所の所在地は、この国の中でも一番神の見捨てたもうた地方だった。そして戦時配置当局局長ディロン・マイアーの超人的な努力にもかかわらず被収容民は冬は凍てつく寒さに、夏は焦げ付く暑さに悩まされたのである。
日系アメリカ人はまた、再配置の結果、算定できない程の経済的損害をも被っている。通知を受けてから実際に退去するまでの数日ないし数週間のうちに身の回りを片付けなければならなかった彼らは、足元を見透かされて財産や所有物を市価よりはるかに安く手放さなければならなかった。すぐに売れなかった不動産や動産は保管されたり管財人の手にゆだねられたりしたが、多くは盗まれたり、破損されたり、法の悪用で二束三文で売り払われたりした。政府は多数の被収容者の農地に対し没収手続きを始めたが、はるか離れた再配置センターから適切な対抗策をとることはできなかった。最終的には政府は日系アメリカ人の財産賠償請求に対して3,900万ドル弱を支払ったが、この金額は彼らの財産の実際の価値の10%以下であったと一般的には考えられている(レーガン政権時に追加賠償がなされている)。
抑留者が有刺鉄線の内側に住んでいた間、皮肉にもヨーロッパや太平洋地域で若い日系アメリカ人が功績を残しつつあった。特別部隊など危険な任務に日系アメリカ人は就いていたし、また他の者は通訳として、おそらくはアメリカ情報局に重要なつながりをもっていた。イタリアとフランスで戦った、全員日系アメリカ人からなる第442戦闘部隊はアメリカ史上これに相当する規模、任務期間の部隊の中では、最も多くの死傷者を出し、最も多くの勲章を持ち帰った。総計25,000人以上の日系アメリカ人が戦時中、軍務に服し、そして多くが死んだ。
しかし再配置の悲劇は、みじめな収容所生活や財産の損失、息子の戦死、戦傷だけではなかった。日系アメリカ人は監禁生活の心理的なストレスに悩み、自国の裏切り者と見なされる当惑と屈辱に悩み、そして彼らがどう扱われるかを決めるのは彼が自身の行いではなく彼らの血なのだという逃れられない恐怖に悩んだのである。再配置は、他のアメリカ人には彼らが尊崇する平等と憲法による保護の伝統は、単に口先だけにすぎなかったという事実をつきつけ、どんなに多くの理屈をつけても、いかに無関心のふりをしようととも、拭い去れない恥を彼らに残したのであった。
1944, NY, 112 pages, 205 x 275 x 5
大統領令9066により強制収容所(当時は戦時転住所と表現された)に移住させられた日系アメリカ人の記録写真を撮影した代表的な写真家にドロシア・ラング (Dorothea Lange)、ラッセル・リー (Russell Lee)、アンセル・アダムス (Ansel Adams)、そして宮武東洋らがいる。ドロシア・ラングは強制収容所のひとつマンザナー強制収容所の撮影も行っているが、多くが強制退去で日系アメリカ人がアセンブリ・センター(集結センター)へ出頭する時期からのもので、ラッセル・リーは移住途上の様子を、アンセル・アダムスはマンザナー強制収容所での様子を、そして宮武東洋は自分自身と家族が収容所に暮らす中でマンザナー強制収容所を撮影している。
本書は1944年にニューヨークの U.S. CAMERA 社から刊行された『自由と平等のもとに生まれて - 忠実な日系アメリカ人の物語』と極めてアメリカ的なタイトルがつけられたマンザナー強制収容所の様子を記録したアンセル・アダムスの異色の写真集である。
未だ戦時下ということもありソフトカバーの簡易な体裁の写真集には、アメリカ西部の風景写真で知られたアンセル・アダムスの作風とは趣が異なり、この写真集によってアメリカ社会一般の日系アメリカ人への誤解を解き、理解を促進したいと考えているのであろうアンセル・アダムスの作為を感じる写真が数多く収録されている。収容所で暮らす日系アメリカ人のポートレイトは顔の大写しでレンズは被写体を直視し、被写体はレンズを直視し、時に微笑みをたたえている。両手に収穫したばかりのキャベツを持って誇らしげに笑っている若い農夫は、勤勉な農業国アメリカの農夫をイメージさせる。公衆衛生局の看護婦を目指しているアキコ・ハマグチのポートレイトは、アメリカ社会への貢献を示しているようだ。ノーマン・ロックウェルの描くアメリカの家庭のように写されたミヤタケ一家の写真では、収容所にも楽しい我が家があるように見せているように思える。朝、学校に通う10代の若者たちを撮影した写真には、希望の未来へ向かう一場面のように映し出し、アダムスのキャプションには「マンザナーはアメリカ市民権獲得への道の単なる回り道に過ぎない・・・」と書かれている。しかもアンセル・アダムスの作為に応えるかのように、被写体の人たちも自分たちの収容所での忌まわしい生活を封印するかのように演じているかのようだ。
巻末のマンザナーの背景にそびえる山々の風景写真のキャプションには「古代の山々の前で、マンザナーの人々は運命を待っています。」とあり、続く最終章のテキストには「アメリカは我々を庇護してくれる。アメリカは山々のように堅固で、大洋や空のように揺らぐことなく永遠である!」と大自然の与える力を信じるアンセル・アダムスらしい文章となっている。
国家の戦争に貢献したいと望んでいたアンセル・アダムス。友人だったマンザナー強制収容所の所長ラルフ・メリット (Ralph Palmer Merritt) の勧めで収容所を訪れ、記録を残す。日系アメリカ人の集団ではなく個人にフォーカスし、彼らは反乱を起こしたり、スパイ行為をするような人間ではなく、アメリカへの忠誠心の強い人たちとして映し出し、日系人をアメリカ化するのに注力した。アメリカニズムを信じ、アメリカを礼賛するアンセル・アダムスによって記録されたマンザナー強制収容所。そこには猛烈な暑さ、蚊の来襲、砂嵐、住環境や日常生活の不都合や不具合、そして有刺鉄線や監視塔を見ることはできない。
収容所を記録したドロシア・ラングはこのアンセル・アダムスの努力を「恥ずべきこと」と呼んだ。人間性や創造性をできる限り排除してリアリズムに徹して記録するドロシア・ラングだが、写真家によって写真が撮られる限り、写真家の個性や考えが入り込む。アダムスは収容された人たちを模範的なアメリカ人として捉え、ラングは不正義を経験している人たちとして捉えたのだろう。
本の状態:ソフトカバー。カバーに擦れ、小さなシミ、縁部分にキズ、角部分にシワ、背部分中央に小さな破れあり。内部ページの数か所に点状の茶シミあり。その他は経年変化程度。
価格:SOLD
by booksandthings
| 2023-09-26 12:00
| 写真


















