2018年 09月 15日
SANYU L'ECRITURE DU CORPS / Musse des arts asiatiques Guimet |

画家の名は、常玉 (SANYU) 。マチスに関連付けられ、藤田嗣治と比較されがちな、そのどちらでもないモンパルナスの華人画家である。
















2004, Paris, 211 pages, 242 x 280 x 18
没後に再評価された「モンパルナスの文人画家」と称えられる常玉 (SANYU) 。
中国で生まれ、1920年代にパリに移り、画家としてのキャリアをスタート。結果として順調のようで順調でなかった画家としての人生。
本書は、再評価のきっかけの大きなきっかけのひとつとなった2004年にパリのギメ美術館で開催された回顧展にあわせて刊行された図録である。
画塾時代の仲間たちを中国の毛筆でスケッチした初期の作品から裸婦像、逍遥遊の動物たち、幻想の植物など東西両用の芸術的遺伝子によって描かれた静寂漂う作品の数々。前半部のテキストは、英語とフランス語。
本の状態:フラップ付きソフトカバー。カバーに僅かな擦れ、縁部分に少しシワあり。その他は経年変化程度。
価格:¥7,400+消費税
常玉の再評価につながる大きなきっかけとなったもうひとつの出来事は、1997年にサザビーズ台湾が開催した常玉の作品21点のオークションだった。
これらの作品の出品者は、なんと常玉の友人の写真家ロバート・フランク (Robert Frank) 。
サザビーズのオークション・カタログ『Robert Frank's SANYU』や日本初の作品集『常玉モンパルナスの華人画家』によると、1931年に国元からの仕送りもストップし、妻とも離婚し、絵で食べてゆくことにも悲観的だった当時の常玉は、どういうわけか卓球とテニスを足して2で割ったスポーツ「ピン・テニス」なるものを発明し、これで生計を立てようと企てた。そしてピン・テニスを売り込むためにニューヨークへ。ハーパース・バザー誌の編集者の紹介で居候先はロバート・フランクのロフトとなった。こうして出会った二人の間には固い友情が生まれる。常玉52歳頃、フランク23歳頃。ピン・テニスの普及活動をあきらめて再び絵筆を握り、1950年に常玉がパリに戻ってからもロバート・フランクは、フランスに来るたびにどんなに忙しくても常玉に会う時間だけは惜しまなかった。その常玉は、1966年にパリの自宅のベッドの上でガス中毒によって事故死する。身寄りのない常玉は、フランコ・チャイニーズ・コミュニティ・サービスなる協会によってパリ郊外の墓地に埋葬された。
話は長くなるが、ここからがちょっといい話・・・。
時は過ぎ、1997年秋、常玉の墓を探していたロバート・フランクは、常玉の墓の貸与期限が過ぎていたことを偶然に知らされる。1998年までに申請がなければ、墓は撤去され、共同墓地に納骨されることになっていた。そこでフランクは、墓碑を作り、更新手続きを行った。常玉は、2026年まではそのまま安眠できることになっている。
さて、どうしてロバート・フランクが常玉の墓を探していたか。それは、フランクが「常玉奨学金 (Sanyu Scholarship Fund)」を創ろうとしていたからである。フランクは、飛行機事故で夭逝した愛娘アンドレアを偲び、アンドレア・フランク財団という芸術支援の組織を作っていたが、この一環で「常玉奨学金」を新設し、アメリカに留学する中国人美術学生をサポートしようとしていたのだ。その資金源にしようとしていたのが、フランクが所有していた常玉の作品だった。常玉は、いくつかの作品をフランクの家に残してパリに戻っていったのである。フランクは、そのことを墓前に報告をしたかったのだろうか。
こうして半世紀にわたってフランクが所有していた常玉の作品21点が台北で競売にかけられて大きな注目を集めたのである。

常玉69歳頃、そしてフランク40歳頃。

by booksandthings
| 2018-09-15 12:00
| アート