2019年 09月 26日
ROBERT FRANK'S SANYU / Sotheby's Taipei |

画家の名は、常玉 (SANYU) 。マチスに関連付けられ、藤田嗣治と比較されがちな、そのどちらでもないモンパルナスの華人画家である。
常玉 (SANYU) で思い浮かぶアーティストがもう一人いる。
写真家ロバート・フランク (Robert Frank) だ。
中国で生まれ、1920年代にパリに移り、画家としてのキャリアをスタートした常玉 (SANYU)。だが結果として順調のようで順調でなかった画家としての人生。
没後、ようやく「モンパルナスの文人画家」として再評価されることになったきっかけのひとつが2004年にパリのギメ美術館で開催された回顧展だった。
そして常玉の再評価につながる大きなきっかけとなったもうひとつの出来事が、1997年にサザビーズ台北が開催した常玉の作品21点のオークションだった。
これらの作品の出品者は、なんと常玉の友人の写真家ロバート・フランク。
サザビーズのオークション・カタログ『ROBERT FRANK'S SANYU』や日本初の作品集『常玉モンパルナスの華人画家』によると、1931年に国元からの仕送りもストップし、妻とも離婚し、絵で食べてゆくことにも悲観的だった当時の常玉は、どういうわけか卓球とテニスを足して2で割ったスポーツ「ピン・テニス」なるものを発明し、これで生計を立てようと企てた。そしてピン・テニスを売り込むためにパリからニューヨークへ。ハーパース・バザー誌の編集者の紹介で居候先はロバート・フランクのロフトとなった。こうして出会った二人の間には固い友情が生まれる。その当時、常玉52歳頃、フランク23歳頃。アメリカでのピン・テニスの普及活動(!?)をあきらめて再び絵筆を握り、1950年に常玉がパリに戻ってからもロバート・フランクは、フランスに来るたびにどんなに忙しくても常玉に会う時間だけは惜しまなかった。その常玉は、1966年にパリの自宅のベッドの上でガス中毒によって事故死する。身寄りのない常玉は、フランコ・チャイニーズ・コミュニティ・サービスなる協会によってパリ郊外の墓地に埋葬された。
話は長くなるが、ここからがちょっといい話・・・。
時は過ぎ、1997年秋、常玉の墓を探していたロバート・フランクは、常玉の墓の貸与期限が過ぎていたことを偶然に知らされる。1998年までに申請がなければ、墓は撤去され、共同墓地に納骨されることになっていた。そこでフランクは、墓碑を作り、更新手続きを行った。常玉は、2026年まではそのまま安眠できることになっている。
さて、どうしてロバート・フランクが常玉の墓を探していたか。それは、フランクが「常玉奨学金 (Sanyu Scholarship Fund)」を創ろうとしていたからである。フランクは、飛行機事故で夭逝した愛娘アンドレアを偲び、アンドレア・フランク財団という芸術支援の組織を作っていたが、この一環で「常玉奨学金」を新設し、アメリカに留学する中国人美術学生をサポートしようとしていたのだ。その資金源にしようとしていたのが、フランクが所有していた常玉の作品だった。常玉は、いくつかの作品をフランクの家に残してパリに戻っていったのである。フランクは、そのことを墓前に報告をしたかったのだろうか。
こうして半世紀にわたってフランクが所有していた常玉の作品21点が台北で競売にかけられて大きな注目を集めたのである。











1997, Taipei, 57 pages, 217 x 277 x 13
1997年10月19日にサザビーズ台北により開催されたロバート・フランクが保管していた常玉 (SANYU) の作品のオークション・カタログ。
ピンク色の裸婦像や逍遥遊の動物たち、幻想の植物など東西両用の芸術的遺伝子によって描かれた常玉ならではの静寂漂う作品21点を収録し、テキスト部分には友人ロバート・フランクとの出会いから交流についての解説、そしてこのオークションのためにフランクが書いた亡き常玉への愛情あふれる手紙が花を添えるチャーミングなカタログである。
本の状態:プリンテッド・ハードカバー。内部ページの縁部分に少しやけ、天地・小口部分に点状のシミあり。その他は経年変化程度。
価格:¥27,500

常玉69歳頃、そしてフランク40歳頃。



by booksandthings
| 2019-09-26 12:00
| オークション・カタログ

