2021年 08月 09日
<11時02分> NAGASAKI / 東松照明 |
著者後記より抜粋
75年間、草も木もはえぬと恐れられた長崎の原子野に、家が建ち、商店が並び、工場が生産を開始したのはいつであったろうか。長崎は、いまでは、被爆の痕跡をとどめぬまでに復興した。
爆心地一帯は平和公園と名づけられ、その高台には、国際文化都市建設法にもとづき1億7000万円の巨費を投じて建てられた長崎国際文化会館の現代ビルがそびえる。この文化会館には、5階のフロアーに原爆資料が、3.4階に唐・オランダ貿易、キリシタン殉教など長崎の歴史をものがたるいくつかの資料が展示されてある。ここを訪れる観光客は、歴史の平面にすでに組み込まれた原爆に、つまり過去の出来事としての<文明のかたち>に出あう。
ピンで止められた昆虫のように、過去形で示された<11時02分>。その前を、戦争を知らぬ高校生の一群が、足ばやに通りすぎる。窓の外に目をうつすと、なだらかな丘の斜面に住宅の屋根瓦が色とりどりに美しく立ち並ぶのが見える。起伏の多い坂道はコンクリートで舗装され、両側に植えられた街路樹の青葉が五月の影を路上におとす。眼下には、オランダ人居留地、出島を形どった扇形の遊歩道が見える。池の端のリュウゼツランの植込みに若い男女が肩を寄せ合う。
ぼくがはじめてこの地を踏んだ1960年には、浦上天主堂の庭の草むらに、爆風で吹きちぎられた聖像の首が、いくつもころがっていた。が、それもいまはない。原爆の爪跡は、東洋のナポリと呼ばれる美しい都市の内側に、堅く閉ざされてしまった。いまでは、文化会館の一室だけが、旧幕時代の出島のように、鎖国の窓を外側にひらく。
被爆してからすでに21年が過ぎたのである。毎年、8月がめぐってくると、ぼくたちは<10年目>とか<あれから20年>といった具合に年を刻む。それは、人間がはじめて予感した、絶滅の恐怖の日を忘れまいとする、きわめて人間的な行為である。
しかし、1945年8月の恐怖は、単なる過去の出来事ではなく、現在もなおつづいている病苦である。死をまぬがれた多くの被爆者が、ぼくたちが生きている、いまを、ぼくたちと同じ時間を生きているのである。
ちなみに、1966年3月末の長崎市の人口、406,165人のうち、被爆者手帳の交付をうけているのは、76,620人である。5人に1人の割合になる。このなかには、明日の生命と健康の不安におびえながら今日一日を過す人たち、言語に絶する苦痛にたえ未来に向って立ち上った人たち、いまも病床にあって原爆症と斗っている人たちがいる。放射能の作用による犠牲者は後を絶たない。認定患者だけで毎年30人以上の死亡者を数えている。
つまり、長崎には、<11時02分>で停止した時と、1945年8月9日11時02分を基点とする現在進行形の時間がある。この二つの時を、ぼくたちは、決して忘れてはならぬ。
たしかに、記憶は年ごとに薄れてゆく。8日の恐怖は時間の風化作用をうけて腐蝕する。刻々と進行する時間をとめることはできない。
しかし、ぼくたちが、生存と進歩の方向に自然をつくりかえてきた人間の英知を誇るならば、忘却という自然の風化現象に歯止めをかける作業を怠ってはならぬ。
人間が、人間である証として、時間の流れに意志の杭を打ち、薄れていく記憶を、経過した時間の分だけ取り戻さなければならぬ。
広島と長崎が体験した8月の恐怖を、原爆症の烙印を押されて苛酷な時を過ごす被爆者の怒りを、歴史のヒダに埋めてはならぬ。
- 1966年7月1日 作者














<11時02分> NAGASAKI / 東松照明
1968, 東京, Unpaged, 198 x 228 x 21
本の状態:外箱、ビニール・カバーなし。カバーの縁部分に僅かにヤケ(変色)あり。その他は経年変化程度。
価格:SOLD
1995年に新潮社から刊行された「フォト・ミュゼ」シリーズの中のタイトル『長崎 11:02 1945年8月9日』。










長崎 11:02 1945年8月9日 / 東松照明
1995, 東京, 157 pages, 150 x 200 x 11
本の状態: ソフトカバー。帯欠け。その他は経年変化程度。
価格: SOLD
東松照明氏の長崎シリーズは、原爆の被害記録だけを編んだものではなく、あえて性格づけるなら、原爆による悲惨を礎とし、その上に構築した都市像とでもいうか、写真で綴る都市論とある。
75年間、草も木もはえぬと恐れられた長崎の原子野に、家が建ち、商店が並び、工場が生産を開始したのはいつであったろうか。長崎は、いまでは、被爆の痕跡をとどめぬまでに復興した。
爆心地一帯は平和公園と名づけられ、その高台には、国際文化都市建設法にもとづき1億7000万円の巨費を投じて建てられた長崎国際文化会館の現代ビルがそびえる。この文化会館には、5階のフロアーに原爆資料が、3.4階に唐・オランダ貿易、キリシタン殉教など長崎の歴史をものがたるいくつかの資料が展示されてある。ここを訪れる観光客は、歴史の平面にすでに組み込まれた原爆に、つまり過去の出来事としての<文明のかたち>に出あう。
ピンで止められた昆虫のように、過去形で示された<11時02分>。その前を、戦争を知らぬ高校生の一群が、足ばやに通りすぎる。窓の外に目をうつすと、なだらかな丘の斜面に住宅の屋根瓦が色とりどりに美しく立ち並ぶのが見える。起伏の多い坂道はコンクリートで舗装され、両側に植えられた街路樹の青葉が五月の影を路上におとす。眼下には、オランダ人居留地、出島を形どった扇形の遊歩道が見える。池の端のリュウゼツランの植込みに若い男女が肩を寄せ合う。
ぼくがはじめてこの地を踏んだ1960年には、浦上天主堂の庭の草むらに、爆風で吹きちぎられた聖像の首が、いくつもころがっていた。が、それもいまはない。原爆の爪跡は、東洋のナポリと呼ばれる美しい都市の内側に、堅く閉ざされてしまった。いまでは、文化会館の一室だけが、旧幕時代の出島のように、鎖国の窓を外側にひらく。
被爆してからすでに21年が過ぎたのである。毎年、8月がめぐってくると、ぼくたちは<10年目>とか<あれから20年>といった具合に年を刻む。それは、人間がはじめて予感した、絶滅の恐怖の日を忘れまいとする、きわめて人間的な行為である。
しかし、1945年8月の恐怖は、単なる過去の出来事ではなく、現在もなおつづいている病苦である。死をまぬがれた多くの被爆者が、ぼくたちが生きている、いまを、ぼくたちと同じ時間を生きているのである。
ちなみに、1966年3月末の長崎市の人口、406,165人のうち、被爆者手帳の交付をうけているのは、76,620人である。5人に1人の割合になる。このなかには、明日の生命と健康の不安におびえながら今日一日を過す人たち、言語に絶する苦痛にたえ未来に向って立ち上った人たち、いまも病床にあって原爆症と斗っている人たちがいる。放射能の作用による犠牲者は後を絶たない。認定患者だけで毎年30人以上の死亡者を数えている。
つまり、長崎には、<11時02分>で停止した時と、1945年8月9日11時02分を基点とする現在進行形の時間がある。この二つの時を、ぼくたちは、決して忘れてはならぬ。
たしかに、記憶は年ごとに薄れてゆく。8日の恐怖は時間の風化作用をうけて腐蝕する。刻々と進行する時間をとめることはできない。
しかし、ぼくたちが、生存と進歩の方向に自然をつくりかえてきた人間の英知を誇るならば、忘却という自然の風化現象に歯止めをかける作業を怠ってはならぬ。
人間が、人間である証として、時間の流れに意志の杭を打ち、薄れていく記憶を、経過した時間の分だけ取り戻さなければならぬ。
広島と長崎が体験した8月の恐怖を、原爆症の烙印を押されて苛酷な時を過ごす被爆者の怒りを、歴史のヒダに埋めてはならぬ。
- 1966年7月1日 作者














<11時02分> NAGASAKI / 東松照明
1968, 東京, Unpaged, 198 x 228 x 21
本の状態:外箱、ビニール・カバーなし。カバーの縁部分に僅かにヤケ(変色)あり。その他は経年変化程度。
価格:SOLD
1995年に新潮社から刊行された「フォト・ミュゼ」シリーズの中のタイトル『長崎 11:02 1945年8月9日』。










長崎 11:02 1945年8月9日 / 東松照明
1995, 東京, 157 pages, 150 x 200 x 11
本の状態: ソフトカバー。帯欠け。その他は経年変化程度。
価格: SOLD
東松照明氏の長崎シリーズは、原爆の被害記録だけを編んだものではなく、あえて性格づけるなら、原爆による悲惨を礎とし、その上に構築した都市像とでもいうか、写真で綴る都市論とある。
by booksandthings
| 2021-08-09 11:02
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